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当院の責任者ならびに思想について

当院は、真言宗という名称を使用していますが、これは真言宗本山、即ち高野山、東寺、その他各本山より別格、または準本山の本山分けをしてもらっているのではなく、単立として当院を本山とし活動しているものであります。

●(由来)

当院の運営者たる当主は、以前に臨死体験をし、その後、単独で弘法大師に導かれ仏教の活動を行っていたものの、自分がこのまま本山に入山することなく単独で仏教活動をして良いものかと悩んでいました。その際、某側に居た者より昨晩の夢で「松の葉を持て」と男の声で言われたと助言され、そのことにより、高野山本山の修行中の者に、真言宗独自の高野山の三鈷松の葉を「いくらか持って帰ってこれないか」と頼んだのです。そして、その数日後に枝の付いた三鈷松を持ち帰ってくれました。当主は、この本山より持ち帰った三鈷松を他の黒松に接木はできないものかと思い、翌日に近くの植木販売店に行きました。店員に「黒松はありますか」と尋ねたところ、いくつかの盆栽を示したのだが、その中で一番「これだ」と思う盆栽を手に持ち掲げたところ、その松自体が既に三鈷松であったのです。
この偶然といえる確率は、何度生まれ変わったとしても有り得ないことだと当主は自負する訳です。そして、その夜、当主は弘法大師より直接灌頂を貰い受ける夢を見たのです。
これを機会に、当主はまぎれもなく「自分はお大師様より直接灌頂を貰い受けた者」とし、自信と確信を持って、当院を単立の真言宗の本山として樹立させたものであることを表明します。

●次に

当院の当主は、単立の真言宗を表明する以前より、弘法大師との約束がありました。それは、「もし私が救われたなら皆をお大師様の元にお連れしますのでよろしくお願いします」というものでした。また、この祈願は、高野山の奥ノ院のお大師様がおられる御廟でなされたものでありました。よって当主は、その誓いを守る為、毎年高野山が主催する結縁灌頂に誘う訳です。(これは任意ではありますが、いつの日か同行される事を願うものです)

●次に当院の思想を述べます。
当院は、直接弘法大師より仏縁を頂いているものであります。そして、弘法大師は、仏教を基本とする真言宗の開祖でもありますが、その日本でいう真言宗の教えは中国にあったものです。そして、その元は、やはりお釈迦様と繋がるのです。ですから、お釈迦様がおられ、お大師様がおられるのです。そして、お釈迦様の変化尊が観世音菩薩であります。その元で我々が人生の修行をさせていただくという考えが成立するのです。

 

◎我々は、仏教を実践することにより、いずれかの日より仏縁や仏果が生じるのです。これは、今のところ科学や社会、又は常識論の上では公認されたものではありません。また、何らかの形で証明されたり、文献に確実に残されたもので、公認され、それが立証されたものでもありません。しかし、当主自身をもって確信しているのです。よって、皆様に仏縁や仏果に対し確信的な表現をすることは多々ありますが、最終的な判断は、自己責任の範囲によってお願いをするものであります。
当主は、仏縁や仏果をいただく為に他の誰かからの表現によって仏縁や仏果をいただくのではなく、自己の心からの表現によってのみ正しい仏縁と仏果が生じると確信しております。

●次に当院の責任者について
当院は宗教法人格ではなく、また単なる法人格でもありません。当主個人が代表者として運営しているものであり、また当院が全ての事業を運営するに当たり、不動産物件や施設、その他すべての仏像、仏具などや設備、備品などを、他の法人格や個人から賃貸借ならびに使用賃貸しているものであり、当院の責任の所在は当主以外のところには無いことを理解したものとします。以後、双方に疑義が生じた場合誠意をもって話し合い解決するものとします。

●当院より仏具(仏像・仏壇など)を購入する場合、例えそれが当院の独自性(形・思想等)を多く含んだ場合であっても、買主は其れとは別に仏具購入価格相当の単純的な商品価値を認めたうえで購入する事を確認したものとする。よって後より買主が当院の独自性に対し否定するところがあった場合においても売買契約の取り消し、無効等の請求ならびに商品の返品は認めないものとする。

○本書でいう弘法大師は空海であり、お大師様でもあり、歴史上の過去の人物であります。
○本書でいう仏縁とは、仏教をすることにより生じる人との不思議な縁や繋がりのことを意味します。
○本書でいう仏果とは、仏教をすることにより生じる貴方が望むところに近い結果のことを意味します。

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