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執筆者の写真観音寺

西国三十三所観音霊場ならびに洛陽三十三所観音霊場 特任大先達満願の法話(その壱)



私は昨年でやっと念願であった公認先達の観音霊場の旅100周を終えました。

その期間は覚えていませんが、10年では無理だったと思います。


はっきり言って、かなり苦しかった時期もありました。

ですが、巡礼を積み重ねるたびに自分の中に在る仏様との会話も積み重ねてきたように思えます。


巡礼やお遍路問わず、その道中に考えることは少なからず「私たちは何のために生かさせているのか」を、問いながらの旅ではないでしょうか?


次の寺までの道中、心の中でそうゆう自問自答を繰り返される方も多くおられるかと思います。

私はちょうど公認先達三十三所観音場を合計100周満願の旅を終え、観音様より答えをいただけたと思いました。

それは私たちは個々の人生を歩んでいると思って日々を生きていると思っているのですが、

実はそうとも言えないのです。


私たちには皆両親がいて、その両親から生を受けているのです。

誰一人として片親だけから生を受け継いでいる者など存在しません。

そして、両親の人生で足りていなかったもの、また、逃げ避けてきたものを背負わされ生きているということを理解させていただきました。


即ち、私たちの両親が各人生で満足や充実できなかったと不足に思える部分を、半ば強制的に私たちの人生において消化させられているということです。


両親は人として生を受けて生きてきたことに対し、自分なりの充実感を得て生きて来たのかということ、また、生まれて来た時代の中で、それなりに納得した人生を送れてきたのかということです。


そして、それらのなかで不足している部分というものを私たち子孫が背をわされて生かされているということに気付かされました。

次に、「私たちはきちんと両親から徳分を与えられているか否か」ということです。

徳分が多い少ないというのは、他者のために何らかを多く施してきたか、または施しが少なかったかということです。


この他者(他人)に対しての施しが多く積まれてきた先祖の徳は高いものとなります。そしてその者の子孫の徳にも及びます。


どういう形で及ぶのかは、その徳のある子孫は、先祖が積んだ徳分だけ他者(他人)からの助けを受け、また、助けを借りることができて生きやすくなるということです。


そして最後に重要なことを気付かされました。

それは「もっと自分を大切にしよう」ということです。


答えは「自分を大切にしながら他者(他人)に施す」ということです。

これこそが、「仏の悟りへの道」です。


自分を大切にし、他者も大切にする。

自分を‪犠牲にせず他者も犠牲にしない。

自分を愛し、他者も愛する。

自分の為にも生き、他者の為にも生きる。

ということが仏の教えへの最短なのでしょう。


何ですか…菩薩行とは自分のことよりも他者に施す利他行なのではないですかという質問の声が聞こえてきますが、では私から質問します。

確かにそうとも言いますが、自分を生み育ててくれた親は私たちにどんな気持ちを抱き育ててくれたのでしょうか?

そうです、どんな親でも我々に他者の犠牲となり苦労をしてほしいと思って育ててきてくれたのではありませんね。

我が子には誰よりも幸せになって欲しいと思って育ててくれたことでしょう。

ならば自分自身も幸せにならなければ私たちを育ててくれた親に申し訳がたたないというものです。


この生き方こそが仏の中庸道。

このような生き方ができるように何千年もの長い間姿を変えることなく、見守ってくれているお姿。我々の親の代、先祖の代より、我々を導いてくれてきた一番の親ともいえるお姿。それこそが観世音菩薩なのです。

                                                   合掌



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